飛鳥・藤原について

「日本」はじまりの地、飛鳥・藤原へようこそ。
緑豊かな山から下りてくる清流は里の田畑を潤し、集落が形成されました。
やがて、ここには宮都が営まれ、国号が整えられ、国のかたちが作られました。
はるか彼方の古代の精神は、単なる記録だけではなく今も人々の暮らしの中に生き続けています。

歴史

謎に包まれた古墳や日本最初の都の跡地など、飛鳥・藤原は1400年の歴史を今に伝える、屋根のない博物館です。
かつての天皇や宮中の人々、そして宮城や古墳を築いた人々の営みの歴史を感じてください。

日本に仏教が伝来したのは、6世紀半ばとされています。
飛鳥寺跡は日本で最初の本格的伽藍を持つ仏教寺院(596年完成)の遺跡です。
釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を始めとする仏教の叡智や進んだ建築技術が中国・朝鮮半島を経由し日本にもたらされ、当時の東アジア諸地域との交流の一端を垣間見ることができます。

630年に推古天皇の後を継いだ舒明天皇によって岡本宮として造られ、その後、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮の4時期にわたり歴代天皇の宮殿が置かれました。
建物配置から公的な儀礼・政務の場と私的な居住空間が一体となった宮殿であることが分かっています。
645年の「乙巳の変」など歴史の舞台になりました。

藤原宮は大和三山のほぼ中央に約900m四方に営まれた宮城です。中心部に内裏・大極殿・朝堂院、東西に二官八省の役所群が作られ、中央集権制度が確立し、律令国家体制よって「日本」という国家を完成させました。
この藤原宮を中心に一辺5.3km四方に及ぶ条坊制都城が形成され、その南東と南西には「鎮護国家」を象徴する大官大寺や本薬師寺が建立されました。

文化

現在の飛鳥・藤原の地は、歴史的遺産の上に人々の生活があります。今も昔も人々は深い歴史文化と共に暮らしてきました。
先人から受け継がれた遺産と日々の暮らしが調和する、この地ならではの文化を感じてください。

墳丘の上部は横穴式石室の巨大な天井石が露出し、古墳の形状がよくわかる石舞台古墳は、一説には当時の権力者であった蘇我馬子の墓(『日本書紀』)といわれています。
江戸時代後期に刊行された『西国三十三カ所名所圖會』には現在と同じ姿で紹介され、既に観光名所として知られていました。

牽牛子塚古墳は、天皇を頂点とした中央集権国家の確立を目指して築造され、方墳に代わって創出された八角の古墳(八角墳)です。これは中国大陸の思想や技術を採用しつつ、日本独自の形態をした他に類を見ない墳墓です。
7世紀後期に飛鳥宮跡などがある飛鳥盆地から南西方向にあたる場所に築かれました。

吉備姫王(欽明天皇の孫)の墓は、欽明天皇陵に隣接する小円墳と伝えられています。
この墓の西側に猿石と呼ばれる花崗岩の石像が四体あり、それぞれ「女」「山王権現」「僧」「男」を意味しているといわれています。
その正体は「道祖神説」や「石の埴輪説」など諸説ありますが、未だに謎のままです。

自然

人類は、いつの時代も自然の恵みを享受して暮らしています。
飛鳥・藤原の地にも長い歴史の中で培われてきた人と自然の物語があります。
自然に寄り添い暮らす人々と自然との絆を感じてください。

緑豊かな山から下りて来る清流。
それらは田畑に潤いを与え、農村の暮らしに恵みを与えてきました。
人々は自然に感謝し、地域の祭りを通じて伝統文化を育んできました。
飛鳥・藤原の里山地域は、このような大自然と人々の暮らしが長い年月かけて融合してきた「日本の原風景」が残されています。

奥飛鳥と呼ばれる、明日香村南端に位置する飛鳥川の源流域の稲渕・栢森・入谷の三つの集落は、文化庁の「奥飛鳥の文化的景観」として重要文化的景観に選定されています。
特に稲渕では地域でも有数の広さを誇る棚田が形成されており、綱掛神事や盆迎え・盆送りの行事が行われています。

飛鳥・藤原の地域には長い歴史の中で多くの遺跡が形成されてきました。これらの地域では、人々の暮らしや四季折々の自然と歴史的資産が共存する取り組みが伝統的に継承され、特に明日香村は「古都保存法」と「明日香法」により村全域が歴史的風土保存地区に指定されています。